不登校は、「良い経験」に?

不登校は、「良い経験」だと思えますか?

不登校という経験は、皆さんにとってはどのような意味を持つでしょうか?

お子さん、親御さん、それぞれの立場によっても違うでしょう。

当然、一人一人、不登校の経緯も違いますので、その意味合いも様々です。

そして、不登校の真っ只中なのか、不登校は過去のことなのかによっても変わるでしょう。

今回は、不登校という経験はどのような意味を持つのか、一緒に考えていきたいと思っています。

不登校は、幸せを考える機会に?

あの経験があったからこそ、子どもの本当の幸せとは何か?ということを考えられるようになったと思います。

不謹慎な言い方ですが、良い経験をしたと思っています。

今なら、そう思えます。

ある親御さんからの手紙(一部抜粋)

「今なら、そう思えます。」という言葉に、決して綺麗事としては括れないつらさもあると思います。

先が見えない不安や、一方でとても苦しんでいる子どもの姿を見る時間は、親にとっても同じように苦しい時間となるでしょう。

それでも、「良い経験」をしたと、今では思えるのはなぜなんでしょう?

そう思えるのは、例えばポジティブな思考を持つことができるなど、一部の人だけなのでしょうか?

心理学では完璧な過去は存在しない

もちろん、価値観や不登校に対する考えによって、受け止め方も異なるでしょう。

けれども、そうした一人一人の違いによるものだけではなく、そもそも心理学では「完璧な過去は存在しない」と言われています。

一体どういうことなのでしょうか?

おそらく聞いたことのある、たとえ話だと思いますが、コップの中に水が半分入っていて、それを見たあなたは「半分もある」、「半分しかない」、どう思うでしょうか?

事実は、「コップの中に半分水が入っている」だけなのですが、人によってその受け止め方は違いますよね。

人によって、その事実の受け止め方は違いますが、その人がそのように感じていることもまた事実だったりします。

「半分もある」と思っている人は、水を安心して飲めるでしょうし、「半分しかない」と思っている人は、不安や不満を感じるかもしれません。

そして、この受け止め方はその時の状況によっても異なるでしょう。

例えば、水を飲むこともままならない苦しい生活を送っている人からしたらどう思うでしょうか?

もしくは、何不自由なく生活をしている人からしたらどう思うでしょうか?

このように、客観的な事実はありながらも、それをどのように解釈するかというその人の中にある主観的な事実というのは、その人のその時の状態によって、様々な姿に形を変えます。

そして、そうした事実もすぐに過去の出来事になっていき、その人を取り巻く状況が変わり、その人の心の状態も変われば、当然過去の出来事に対する解釈も変わっていきます。

あのとき、あれがあったおかげ?あったせい?

私たちにも、人生を振り返ったときに苦しかった経験はありますよね。

それを今振り返ったときに、「あのときあれがあったおかげで」「あのときあれがあったせいで」、どのように感じるでしょうか。

どちらが優れている、大切かということではありません。
私たちがそれをどのように思うかというのは、今の自分自身の心の影響をどうしても受けるということです。

今の状況に満足した気持ちを感じていれば、肯定的な評価をしやすくなり、今の状況に苦しさを感じていれば、否定的な評価をしやすくなります。

私たちは、物事をどう受け止めるかについて感情の影響を大きく受けるということでもあるのですが、どんな経験にも前向きな意味を見出そうとする力強さを持っているということにもなります。

今の時間を充実させていくこと

けれど、不登校の経験が前向きな意味にもなるからといって、今悩んでいる人に対して「不登校は良い経験だよ」と伝えても、それは押し付けになったり、相手の孤独感を強めてしまうかもしれません。

今その人が感じていることを尊重できなければ、相手もこちらの感じていることを尊重しようとは思えないでしょう。

それでも、いつかは「この経験にも意味があった」と思えるように、その人の今の時間を充実させていくことが大切です。

過去の事実は変えられませんが、過去に起きたことをどう受け止めるかはその人次第です。

その人が少しでも豊かな人生を感じることができるように、今できることを1つずつ取り組みながら、今が少しでも充実することを大切にしていきたいですね。

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